【コラム:リンゴ】画家にかじられたリンゴの話

tsasaki
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この記事はゲストを招き、語っていただくオリジナルコラムです。

本記事では、人並み以上にリンゴをかじってきた青森県出身のライターより、リンゴが登場する芸術作品とその魅力についてご紹介していきたいと思います。

リンゴが辿る運命

この世でもっとも有名な「リンゴをかじった人物」といえば、旧約聖書の登場人物、アダムとイヴ。蛇にそそのかされたイヴは、食べてはいけないはずのリンゴを口にし、アダムにもすすめます。その結果二人はエデンの園を追放されて…というこのお話は、多くの人が耳にしたことがあるはず。アダムとイヴは自分たちが罪を犯してしまったことを知り、これが原罪を背負った人類のはじまりとなります。
一方、かじられたリンゴは、その後どのような運命を辿ることになったのでしょうか?この物語のおかげで「禁断の果実」の意味を宿した果物は、やがて多くの画家たちによって、絵の中に描かれていくこととなりました。

巨匠たちのアトリエで

舞台は16世紀後半のイタリア。ルネサンス期が終わりを迎えた頃、カラヴァッジョという鬼才がいました。宗教や神話の題材を多く描きましたが、緊迫した瞬間を捉え、光と影の中でくっきりと浮かび上がる人物表現は、当時の人々に衝撃をもたらしました。まるで温度や匂い、また登場人物たちの声や息づかいまでも、画面から伝わってくるかのような生々しさは他の画家たちとは一線を画します。
そんな彼の描いたリンゴにもぜひ注目してみましょう。《バッカス》《エマオの晩餐》といった有名な作品にもリンゴが登場しますが、目を凝らして見ると、虫食いの穴が空いているものも。ここでも徹底的に写実を追求していることがわかります。
カラヴァッジョは、絵画を読み解く上での記号的なモチーフをリアルに描くことで、観る人の住む現実世界と、絵の中の宗教や神話の世界とを、ぐっと近づける役割を果たしたのです。

続いてリンゴは19世紀のフランスへ。ポール・セザンヌのアトリエでもリンゴは大活躍します。視覚的な実験を重ねるためのモチーフとして、セザンヌは繰り返しリンゴを描きました。生涯にわたり、この画家が描いたリンゴの絵はなんと60点を超えるそうです。彼の野心は「りんごひとつでパリを驚かせたい」の言葉で表現されたほどでした。しかし、どうしてリンゴにこだわっていたのでしょう。
おそらく手に入りやすいこともあったのでしょうが、セザンヌにとってリンゴは特別な思い出のある果物でした。少年時代、学校でいじめられていた下級生を助け、お礼に贈られたのが籠入りのリンゴだったのです。ちなみに助けられた少年はエミール・ゾラという名前で、のちに小説家として活躍することになります。
セザンヌの作品は晩年になってから評価が高まり、やがて「近代絵画の父」と呼ばれるほどに。後世に多大な影響をもたらしたポスト印象派の巨匠の制作を、陰ながら支えていたのがリンゴ、とは言い過ぎでしょうか。

リンゴが描かれた絵を見ていてふと頭に浮かぶのは、画家たちは絵を描き終わった後、モチーフとして用いたリンゴをかじっていたのでは?ということ。特にカラヴァッジョの絵を見ると、食べたこと、匂いをかいだことがないものをこんな風に描けるわけがないと感じます。偉大な画家たちも、私たちと同じようにリンゴを食べていたと思えば親しみがわいてきます。

リンゴ

Still Life with Apples and a Pot of Primroses, Paul Cézanne

西から東への旅

リンゴはヨーロッパ生まれの果物かと思いきや、実は中央アジアが原産で、その後ヨーロッパに伝わったようです。そしてヨーロッパからやがてアメリカへ渡ります。そこから日本へ辿り着きました。国内で食用として本格的な栽培がはじまったのは明治時代のこと。ちょうど、日本の画家たちが西洋絵画の技法を学びはじめた時期と呼応します。
西洋の画家たちが描いた作品に登場するリンゴと、私たち日本人が普段よく目にするリンゴとを比べてみると、ちがいに気がつきます。前者のリンゴは、手のひらにすっぽりとおさまるほどで、それぞれの色やサイズもまばら。一方、日本人の私たちが想像するリンゴといえば、大きくまるく赤い実です。品種のちがいはあれど、日本でのリンゴ栽培は、剪定や袋掛け、葉摘みなど、農家の方々が手間暇をかけているのが特徴。この過程がちがいを生んでいるのかもしれません。では日本のリンゴは絵の中にどのように描かれているでしょうか?ここからは日本人画家によるリンゴの表現に注目していきたいと思います。

そして青森へ

明治以降、日本人の生活の中に溶け込んでいったリンゴを描いた画家は多くいますが、せっかくなのでリンゴの一大産地でもある青森の画家をご紹介したいと思います。彼の名前は今純三。考現学を提唱した今和次郎の弟です。明治・大正・昭和の時代を生き、青森の自然や風俗を、巧みな描写力で油画や銅版画の中に描き残しました。
今兄弟が生まれたのは青森県弘前市ですが、1906年、13歳のときに一家で上京。以後、兄の和次郎は東京を拠点に生活しましたが、弟の純三は東京で画家として順調にキャリアを積むものの、1923年、関東大震災で住宅が倒壊したことをきっかけに青森に戻ることを決意します。
再び青森で暮らしはじめた初期の1925年頃、純三の油絵の作品にリンゴが現れます。中央には花瓶が置かれ、手前にリンゴ3個と柿2個がバランスよく配置されています。柿は小ぶりなタイプのようですが、この柿との対比により、リンゴの大きさが感じられます。濃い赤色の硬そうなリンゴは、いかにも青森のリンゴといった感じ。かじったときの皮と実の感触や、甘酸っぱい香りが漂ってくるところを想像してしまいます。

収穫されるリンゴ

今純三は、リンゴを静物画の題材として扱っただけではありません。リンゴをかじったどころか、リンゴ農園に足を踏み込んで制作した画家なのです。リンゴが木に実る姿や、収穫に勤しむ人々の姿を見事に捉えました。1934年に出版された『青森県画譜』には、収穫期のリンゴ園の風景が収められています。やや傾斜した土地に、鈴なりに実った真っ赤なリンゴは画面を覆い尽くすようです。手前の人物はカゴを左手に持ち、右手は赤い大きな実に伸びています。頭は手ぬぐいのようなもので覆われ、前掛けや長靴といった服装まで丁寧に描かれているところは、当時の農作業の様子を伝えてくれます。

リンゴの旅は続く

時代が移り変わると、リンゴはルネ・マグリットの絵画にも登場。やがて有名な音楽グループが設立したレコードレーベルのロゴにも使われました。さらに今や誰もが知るテクノロジー会社のロゴにも。こうしてリンゴをモチーフとしたデザインは私たちにとって身近な存在となりました。この秋、美術館に行けばリンゴが描かれた作品に出会えるかもしれませんし、また小説を読めば、主人公がリンゴをかじる場面もあるでしょう。リンゴが登場するあなたのお気に入りの作品を、ぜひ見つけてみてはいかがでしょうか。

tsasaki
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どうもありがとうございました。ここからは宣伝です。

青森県立美術館

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