ライターはランサーズやサグーワークスなどで活動しているKuşadasıさんです。
太宰治に人生を変えられた話
わたしが太宰治に1番最初に触れたのは、中学二年生のときの「走れメロス」だと思う。教科書に載っているやつ。あんまり印象に残っていない。別段面白いとも思わなかった。
当時わたしは芥川龍之介が好きだった。きっかけは小学五年生のときに読んだ『蜘蛛の糸』。天才だと思った。
それまでは青い鳥文庫や怪談レストランばかり読んでいたけれど、なんとなく物足りなさがあった。分かり易すぎて、考察を挟む余地がなかったから。
芥川の作品には、どの作品も深みがあった。
『杜子春』を読んでは杜子春がなぜ「お母さん…」と呟いたのか、『鼻』の坊さんはなぜ鼻を元に戻したのか、『地獄変』で娘を燃やすほど絵師を駆り立てたのはなんだったのか…。
それに比べて、『走れメロス』にはそれほどの魅力がないように思えた。なんというか、ありふれた物語に過ぎないような気がしていた。
その一年後、転機が訪れる。
父の実家の書棚を処分することになり、父が学生時代読んでいた小説を譲ってくれることになった。夏目漱石の『それから』『こころ』や星新一の『宇宙のあいさつ』、呉承恩『西遊記』の上中下巻などかなりの冊数をもらったのだが、その中に混じっていたのがほかでもない太宰治の『人間失格・桜桃』だった。
他にも何冊か太宰の本があって、1番多かったのは彼の本だったように思う。かつて父も太宰が好きだったということを知ったのは、かなり後になってからだった。
とはいえ、貰ってすぐに読んだわけではなかった。しばらくは存在すら忘れていたと思う。
ひとがなにか新しいことに気づくのは、手持ち無沙汰のときが多い。
とかなんとか格好つけてみても仕方ないのだが、中高時代に不真面目だったわたしは、テスト期間になるたびに暇を持て余していた。部活もなくなれば、友達もみんなテスト勉強ばかりで遊びにもいけなくなるし、親も勉強しろという。仕方なく自分の部屋に閉じこもるも、天邪鬼なところを発揮して、部屋を片付けたり本を読んだりして時間を潰していた。
そのときたまたま読んだのが、人間失格だった。有名だし、なんとなく読んでみようと思った。そんな軽い気持ちだったのに。
わずか数ページ読んだだけで圧倒された。
すごいものを読んだ、と思った。
気がつけば夜寝るのも惜しんで読んでいた。途中泣いたり考えたりでなかなか進まなかったが、最後読み終わったとき、ああ、この人はすごいなあと、ただそれだけ感じてぼーっとしていた。
1周目はひたすら衝撃ばかりで何も考えられなかったけれども、何度も何度も読むうちに、また彼の他の作品をどんどん読むにつれて、多少彼のことがわかってきた気がする。
太宰治は、どこまでも純粋で真面目だ。悪友とつるんで酒や薬物をあおるのは、真面目な行為ではない。けれども、真面目だ。彼のこういうところは「フォスフォレッセンス」や「魚服記」「メリイクリスマス」、そして「走れメロス」などに非常によく出ていると思う。
また、太宰は強い人ではまったくない。欲望にすぐ負ける。けれども、欲望に負けたことを認めて、自分は悪人であることをせきららに記す。
そういった意味で、太宰は強い。強いというよりは、ただひたすらに真面目なのかもしれない。真面目だから良心の呵責に耐えかねてしまって、全て吐露してしまう。
(こういったことは太宰のかつての友人坂口安吾も「不良少年とキリスト」の中で書いている。自分の手元だと角川文庫クラシックス『堕落論』のなかに収録されているので、ぜひ読んでほしい)
太宰が芥川龍之介を非常に敬愛していたこともすぐに知った。芥川の名前を冠する「芥川賞」を貰えなかったのを不服に思い、当時審査員をしていた川端康成に抗議の手紙を送ったほどだそうだ。好きな人が好きなものと、自分が好きなものが同じだというのは、ファンにとっては胸熱なのである。
わたしにとって太宰のことを考えたり知ったりすることは、自分自身を反省することでもあった。
自分もときに欲望に負けた「悪人」であったはずだけれど、彼のようにしっかりとその罪を認めることが出来ていただろうか?言い訳していなかっただろうか?
中学の終わりごろ、中高一貫校に通っていたわたしは、同世代の人たちが受験勉強にいそしむのをよそに、暇を持て余していた。そう、新しいことに気づくタイミングである。
このとき鷲田小彌太の『人生の哲学』という本を読んだわたしは哲学に興味を惹かれており、有名な哲学者の解説書を読んだりもしていた。
と同時に、ニーチェという哲学者がまさに自分の問いに答えていることに気づいた。
ニーチェは牧師の家に生まれた。小さい頃は教会の手伝いもするしっかり者で、「小さな牧師さん」と呼ばれていたという。しかし、大学生のときにショーペンハウアーの著作を読んだことやワーグナーとの出会いと決別が引き金になり、彼はキリスト教を否定するようになる。
ニーチェはキリスト教はルサンチマンにまみれているという。ルサンチマンというのはざっくりいうと、弱者がいろいろ理由をつけて強者を批判することをいう。キリスト教においては、持たざる者を「善」だとし、持つ者は「悪」であるとされることから、価値観の意図的なひっくり返しが起きているわけである。
こうしてニーチェはキリスト教を批判したわけだが、太宰の潔さや純粋さはこれに通じるものがあるように思えた。ニーチェを知ったとき、自分は間接的に太宰の偉大さを感じた。「もっと強い人間にならなきゃ」とよわよわな太宰に怒られているような気がした。
太宰は、本当はめちゃくちゃ強い。
強くならなきゃ、と思って大学では哲学科に入ったけれども、じつはあんまり強くなっていない。昨年、やはり太宰を好きな先輩と太宰の墓参りに行った。雨の中手を合わせながら、ああ、あんまり強くなれていないな、と感じた。
大学に入ったらニーチェの研究をしよう、と思っていたけれど、結局ほかの哲学者の研究をしている。この世の真実を知れたら強くなれる気がして、認識論・存在論の研究をしているけれど、これからどれだけ頑張ってもたぶん真実はわからないだろうなあ…とも思っている。
(註:認識論とは人間が、もしくは自分がモノをどのように認識しているかを考える分野、存在論は認識しているモノがどのような「あり方」をしているのか考える分野)
さいごに、わたしの大好きな「桜桃」から引用する。
「子供より親が大事、と思いたい。」
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